はじめまして、西村です。教師紹介まで読んでくださってありがとうございます!
「英語で合格して英語で生きる」
これは私のライフストーリーです。
英語を武器にして東大に合格し、
英語を武器にして仕事をしてきました。
田舎育ちの純日本人の私ができたのですから、
きっと誰だってできるはずです。

指導経験
指導歴10年以上、小学生~高校生までほぼ全科目を指導したことがあります。
首都圏の最高峰の進学塾・SAPIXで長らく勤めていました。SAPIXでは全校舎トップの成績・合格実績を何年も連続で出し続けました。最難関校の模試の作成や、イベント講座を担当するトップ講師でした。一方で、受験に合格するだけではなく、本当に使える英語を教えてあげたいという思いが年々強くなり、当塾を開校するにいたりました。
私自身、純日本人でありながら、受験英語を通じて高いレベルで実用英語をマスターしてきました。日本ではやり玉に挙げられることの多い「受験英語」ですが、アプローチの方法を間違えなければ、「使える英語」と相反するものではなく、むしろ「受験英語」はそのまま「使える英語」に繋がっていくものなのです。
受験を通じて、英語をしっかり身につける。英語で合格して、英語で生きる。それを生徒と一緒に体現していくことが私の夢です。
資格・特技
- 東京大学理科一類→言語学科卒
 - University of Michigan Linguistic Institute修了
 - TOEIC満点(990点):2015年
 - 高円宮杯英語弁論大会(和歌山県)優勝
 - 英語の発音は超綺麗です!発音を聞いただけで生徒の舌の位置が分かるので、発音矯正ができます。
 - 英語はビジネスレベルで話せます。
 
楽しいからこそ、勉強はうまくいく
経歴からすると私はガリ勉のように思われるかもしれませんが、むしろ机に向かって勉強するのは苦手でした。なので、いかに楽しく勉強するかをずっと考えていました。そんな経験を元に、教師になってからも常に「楽しく・効率的」な指導を追究しています。そのおかげで、私の生徒はいつも「先生の授業が楽しみ」と言ってくれます。
もう少し詳しく知りたい方へ…
私は和歌山県で育ち、中1でYes, Noから英語の勉強を始めました。それまでは英語とは無縁でしたが、アメリカ人や文化に漠然と憧れていて、中学生になってからはずっと英語が好きでした。
高1の終わりに、1か月のアメリカ留学を経験しました。学校では英語が一番得意な生徒だったはずですが、なかなかうまく喋れませんでした。それでもホームステイ先の同い年の韓国系アメリカ人(Edwinくん)とは仲良くなり、人生最良の思い出となりました。
それからますます英語の勉強に打ち込み、高3になる頃には東大入試の英語で帰国子女レベル(120点満点で90点台)の得点を取れるようになっていました。英語でそれだけ稼げたので、東大入試はらくらく突破しました。
そんな私ですが、いっちょ前に受験疲れを感じ、大学1年時はサークル活動や友人関係に打ち込む(訳:遊ぶ)ことに決めました。大好きな英語も放置した1年間でした。大学2年生になったとき、外国人と話す機会があったのですが、三人称単数現在形すら正しく出てこなくて、とてもショックを受けたのを覚えています。
東大では、3年生から専攻を選びますが、私は言語学を選びました。昔から好きだった言語をしっかり極めようと思ったからです。言語学には誰よりも真剣に打ち込んでいたと思います。プチ自慢になってしまいますが、大学3・4年生の成績は、すべて「優」(一番上の成績)でした。
それだけ真剣に勉強していたので、研究室の先生方には「研究者になるんでしょ」と期待していただいていました。しかし、私は子供に教える仕事がしたかったので、塾の先生になることにしました。ある教授には、「君みたいな人がアカデミアを離れるのはもったいない」とおっしゃっていただきました。その言葉は、思い出すたびに今も私のかすかな自尊心を温めてくれます。
ですが、塾の先生になる前に、私は少し寄り道をすることにしました。塾しか知らない先生にはなりたくなかったからです。生徒に将来の仕事について聞かれたときに、多角的な視点で話せる大人でありたかったということです。具体的には、都庁で少し勤めました。
また、その間にTOEICで満点(990点)を取りました。TOEIC向けの特別な対策はしていませんが、この頃に「多読」という勉強法を知って実践していました。「簡単な本をたくさん読む」という勉強法です。「勉強というものは、難しい問題を解いて学ぶものだ」と思っていた私にとって、目から鱗でした。多読のおかげで、かなり英語力が伸びました。
さらにそのあと、インドで就職しました。「英語で仕事をしたことがある英語の先生」になりたかったからです。2年で十分目的を果たしたと思えたので、日本に帰ってきました。
そして、SAPIXで勤め、独立し、今に至ります。
